『紅の豚』を見たから知ってるはいるけれど、記憶が遠い・・・
そんな方にもオススメ!
『紅の豚』に秘められたジーナ思いと
『なぜ豚になったのか?』といった謎などを
宮崎駿監督のインタビューや名言から紐解きます。
「紅の豚」ファン方でも久しぶりに見ようとする方でも、
映画が数倍面白くなること間違いなし❣
初めて見る方にはネタバレしますのでご注意ください❣
目次
映画「紅の豚」の中で、
なぜポルコ・ロッソ(「紅の豚」の主人公の豚)は
豚になったのか?
本名は”マルコ・パゴット”。
かつてイタリア空軍の大尉として戦争に参加。
その、イタリア空軍時代は人間の姿であったマルコ・パゴットが
なぜイタリア語で”赤い豚”を意味ポルコ・ロッソと呼ばれる豚の姿に
なってしまったのかは明かされていません。
人間から豚に変化した事実は、ジーナが言ったセリフに
「どうやったら、あなたにかけられた魔法が解けるのかしらね」
とあるため魔法がかけられたことによるものだと明白です。
豚になった理由・・・
その有力説を紹介してみましょう。
有力説~軍隊を去るため
第一次世界大戦で戦争がそのものに異議を感じ
軍隊を去るために自ら豚になる魔法をかけたのかもしれません。
仲間が次々と戦死する中で唯一生還しました。そのなかで、
「(戦争で)死んだやつはいいやつさ」
というセリフがあります。
また、
ジーナの店に貼られている人間姿のマルコ(ポルコ)の写真は
黒く塗りつぶされています。
「その写真を外さないことが気に食わない」と言った
発言もしています。
このことから、自分だけが生き残ってしまったことに
重い罪悪感を抱き、魔法を自分自身にかけることを
選んだのかもしれません。
有力説~ジーナのため
ジーナは戦闘機乗りの夫を3人も亡くしました。
ポルコに恋心を抱いているジーナに
4度目の同じ思いをさせないために
豚になったのかもしれません。
映画「紅の豚」の中で、なぜ他の動物でもはなく『豚』になったのか?
有力説~侮蔑の対象に
豚は一般的に愛嬌はあります。
しかし、侮蔑の対象の動物でもあります。
その、侮蔑の対象になることで罪を背負うという負荷をかけて、
生きていくことを選んだのかもしれません。
有力説~ひらめき
宮崎駿監督名言の中で、
「悪いことをしても天罰が下るわけではなく、
良いことをしてもお褒めにあずかるわけではない。」
「じゃあ何が違ってくるかというと”顔”が違ってくる。
“豚の顔”になるのか、少しは”ましな顔”になるのか。」
といった発言をしています。豚に対する宮崎駿監督の
イメージは醜い豚にあるのかもしれません。
豚になった理由について当然何度も質問をされてきた宮崎駿監督は
「ほっといてくれ! いいじゃねぇか豚で!」と
声を荒げて答えています。
また、宮崎駿名言集の中で
「もう、とことん考える。ありとあらゆる方向を探るんです。
とことん困ると、奥のほうでふたが開くんです。
そのふたが開くと、最初に考えもしなかった方向が見えたりする。」
と発言しています。
その「ひらめきが豚」であったのかもしれません。
有力説~理屈を超えた象徴
元ピクサーのアートディレクター・堤大介氏(宮崎駿監督の姪の旦那)が
宮崎駿監督のことを「神様のような存在ですから。」と表現しています。
そんな神様にしか出来ない理屈を超えた象徴が
「豚」だったのかもしれません。
有力説~自由の象徴
飛行艇製造会社のピッコロが
「近頃はな、札束が紙クズ並の値打ちしかないんだよ」
と言っています。
ことからわかる世界恐慌の波がヨーロッパに押し寄せ
人々の生活が厳しくなりつつある時代背景がありました。
ジーナから
「いかがでしょう。愛国債権などをお求めになって民族に貢献されては?」
と問われました。
それに対しポルコは
「そういうことはな、人間同士でやんな」
と答えています。
また、フェラーリン少佐から
「なあマルコ、空軍に戻れよ、
今なら俺たちの力で何とかする」
「冒険飛行家の時代は終わったんだ、
国家とか民族とかくだらないスポンサーを背負って
飛ぶしかないんだよ」と助言されています。
それに対し、ポルコは
「ファシストになるより豚の方がマシさ」
「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ」と答えています。
このような発言から、
国家の中で生きる人間のように政治や欲にまみれて生きることに
異議を感じ単なる冒険家のまま自由を求めて
行こうとしている姿勢がわかります。
その自由の象徴は、
“豚”になることでしか得られなかったのかもしれません。
有力説~飛行機への思い
エンドロール中の“飛行機の黎明期”を描いたイラストで
豚になったパイロットが描かれています。
「どんなものでも黎明期はキラキラしているけど、
それは現実に資本や国家の論理に組み込まれてしまう」と
宮崎駿監督が語っています。
このことから、純粋に愛するべきものが”豚“であり、
”豚“の姿であれば純粋に大好きな飛行機のことを
思い続けられるのかもしれません。
有力説~“中年”の宮崎駿の理想
宮崎駿監督は、インタビューの中で
「自分が中年の男性に向けて映画を作ってしまったことに
嫌気がさしましたね。
とんでもなく下らないものを作ってしまったと(笑)。
いや、嫌いかって言われたら嫌いじゃないんですよ。
嫌いじゃないけど、
やっぱり子供たちのために映画を作ろうと言ってきた
人間ですからね(笑)。
それがこういうものを作ってしまったということに対してはね、
自分は一体何をしてるんだ?という気持ちになりました」
と当時も気持ちを語っています。
子どもたちのために映画を作成してきた自分の経路と
逸脱してしまったことに、違和感を感じています。
しかし、その中年男性は宮崎駿監督自身も含んでおり、
豚のポルコは色んな意味で“中年”の宮崎駿の理想の姿そのものを
表現できたという満足感をも抱いていたのかもしれません。
有力説~軽い気持ち
宮崎駿監督は、インタビューの中で
「日本航空が機内で上映するための短編映画を必要としてたんですよ。
でもあまりやる気が無かったので、
空中戦のシーンを描きたいと言えば断られるだろうと
思ってそう言ったんです。
そしたら先方は『それで構いません』と(笑)。
だから初めは、能天気に漫画映画を作ろうと思ってたんですよ。
豚が戦車に乗ってやってくる話で、
『突撃!アイアンポーク』っていうのをやりたかったんですけど、
結局これはボツになりました(笑)」
と映画作成のきっかけを振り返っています。
『豚』という発想の発端は軽い気持ちでの閃きだったようです。
軽い気持ちから生まれた『豚』に色々なメッセージを
加えていくことのできる宮崎駿監督はやはり
「神様のような存在」であることを物語っているように思えてなりません。
映画「紅の豚」の中で『豚』だったはずのコルポが人間の顔に戻ったシーンが示す意味とは?
有力説~フィオに恋心
フィオが寝ている側で銃弾を触っているとき
純粋にフィオに恋心を抱いたので人間の姿と
なったのかもしれません。
有力説~純粋に惚れた
カーチスの決闘に勝利し、フィオに別れのキスをされたとき
ポルコが嫌っていた“愛する人が死んでしまう戦争で
決着をつけたのではありません。
正々堂々と殴り合いの結果に得た勝利であり男気触れた意識と
純粋に惚れたフィオのキスが豚である
コルポを人間に戻したのかもしれません。
映画「紅の豚」の中で、気になるジーナとの結末は?
有力説~ジーナの待ち人
最後にホテル・アドリアーノの昼間のシーンが描かれています。
そこには、赤い飛行艇が止まっている裏の庭側と
後誰もいない庭が映ります。
ここにジーナがいないということは、
ジーナの待ち人は来たことを示すのかもしれません。
有力説~そのまま立ち去った
しかしながら、宮崎駿監督は
「人間の顔に戻ってしまうこともあるかもしれないけど、
(庭に)ジーナが出てきたら、
また豚になって飛んでいっちゃいますよ。
僕はそのほうが、(ポルコが)自分を許さないというほうが好きです」
と答えています。
待ち人は庭に行ったけれど、
ジーナの店で求婚されている姿を目にして、
またそのまま立ち去ったというような
宮崎駿監督流の結末もありうるのかもしれません。
宮崎駿監督のインタビューや名言から推察される「紅の豚」の謎を検証
自分なりに思いを馳せることもまた、
宮崎駿監督の意図するところのようです。
真意を考えながら振り返る紅の豚もまた
新鮮な映画になるに違いありません❣
コメントを残す